城端織物語


 今から約440年前、戦国時代末期の天正5年(1577年)に畑氏によってここ城端で絹織物が始められたと伝聞されている。(城端絹起源伝記)その後天正13年(1585年)より、この地を治めた加賀藩前田氏によって城端の絹織物が庇護され発展してきた。元禄6年(1693年)の城端町在住者数や職業などを詳細に記した「元禄品々帳」によると総戸数689戸の内375戸が絹織物関係の仕事に携わっていたと言う。  

 絹織物が城端で起こるには原料の繭や生糸と労働力それに織布の技術が近在にあったと思われる。北陸は蓮如上人による布教活動で浄土真宗が普及し栄えるようになった。その蓮如上人開基の善徳寺が福光から、永禄2年(1559年)頃に城端に移ったことで、城端は善徳寺の門前町として賑わい、越中の南西部で最も大きい町となった。天正1年(1573年)には城端の各所で市が立つようになり、益々賑わい近隣の産物が集まった。その中には繭や生糸もあり城端は集散地であったと思われる。史書には城端町が出来る以前から五ケ山の村々で繭の生産と生糸の製造が行われ、福光でも小矢部川上流域で繭が創られ製糸されたとある。絹織物が始められた事で城端へも繭が多量に運ばれ製糸されたと思われる。労働力の面では城端町が賑わう事で付近の農村から流入した人が定住し人口も増えてきた。また、慶安2年(1649年)と同3年(1650年)には西新田町、東新田町が開墾され人が移り住み城端町に編入された。特に慶安4年(1651年)に加賀藩が年貢の増収を計り、年貢の納入に窮した農民が村を離れ城端町へ移住した事で人口が急増した。先の「元禄品々帳」には、越前板倉村より慶長9年(1604年)に来城した者が6家あり、また文禄1年(1592年)に尾張国清洲より来城した者が3家ある。しかも、それらの人々の家業が絹に関係した仕事をしていた。前田家は尾張の武将であり、最初に城主となったのは越前府中であり、共に前田家とも関係の深い土地でもある。その当時越前と尾張の地は絹織物の先進地であったので、これらの人々によって絹織物の技術が伝わったのかもしれない。    

 このような事情と幕府政治が安定し、庶民の生活も向上する事で絹の織物に対する需要も増えたことと相まって、城端での絹織物も急速に発展した。加賀藩も絹織物に課税し藩の財政を潤す事が可能となり、加賀藩の特産品として領外への販売が奨励された。元禄年間城端絹織物は隆盛となったが、その後幕府の奢侈禁止政策などで、各地の絹織物産地は極度の不況となった。政策的な不況や景気変動による不況で絹織物の販売が不振の時などには、加賀藩は絹織物で成り立つ城端に貸し米、貸し銀などの金融政策を施した。あるいは天候不順で繭が不作となり生糸相場が高騰した時には、領国内で生産された生糸の領外への販売を禁ずるなどの政策を行い城端の絹織物の生産を擁護した。幕末の安政頃には生糸輸出量が増大し生糸価格が高騰したので、城端の絹織物業者が困窮し、加賀藩より「御仕入銀」と称した低利の資金融資が行われたとある。    

 城端で織られた絹の大部分は白生地のまま京都西陣に運ばれ、そこで精練染色の加工がなされ、加賀絹を扱う4件の問屋で独占的に販売されていた。主な市場が上方なのでその地の市況が直ちに城端の好不況に影響した。そのため新しい市場開拓の必要にせまられ、江戸市場を開拓する事となった。江戸では諸大名が自国の産物を売る事に力を入れそれぞれ産物会所などを設置していた。新しい市場の開拓に伴い加賀藩も資金的に援助し、城端の絹織物業者もこの流通経路を利用して文政12年(1829年)には江戸でも城端絹が販売される事となった。      

 先に述べたように加賀藩も絹織物にかけた税によって、城端織物が好調に販売されている時には藩の財政も潤う事となるので、このような様々な保護政策を執り城端の絹織物の発展に尽力してきた。それを礎として現在も城端は長繊維の織物産地として発展している。

 明治期に入ると、政府は生糸や絹織物の輸出を奨励した。良い織物には良い生糸が必要なので、明治5年(1872年)に官営富岡製糸所を造り製糸技術の発展に努めた。当時は城端町の戸数は1000戸でその内約9割の家に居座機のチンカラ機があり、節絹あるいは小川絹と称される薄絹が織られていた。この薄絹は経糸に五ケ山で生産された生糸を、緯糸には福光で玉繭から作られた玉糸を用いたとある。生産組織は仲人と呼ばれる11の問屋にその9割の手織機人が支配され、原糸はもちろん金銭まで融通を受け、その代わりに生産した絹織物は全てこの仲人が集荷した。11名の仲人によって買い集められた絹織物は5軒の生絹問屋によって京都市場に販売された。藩政時代からそのままに生絹問屋と呼ばれる5軒の問屋の下、11戸の仲人を織元とし、その下に各手織機人は織子又は賃機と組織だてられ、問屋制家内工業の形態をとっていた。明治25年(1892年)に、岡部長左衛門(1867年~1924年)によって絹織物業者や絹問屋を組合員とする生絹組合が設立され、城端町の約9割を占める手織機人を傘下に集め織物の品質向上や業界発展に努めた。明治37年(1903年)に日露戦争が起こり、その戦費の調達のため翌38年(1904年)から織物に消費税が課税される事となった。税務署から税務署員が出張し、今の善徳寺の研修道場あたりに在った生絹組合事務所で織物に検印していた。同39年(1905年)には城端を代表する織物となる羽二重と絽の織物が織られた。その後絹業も益々発展し、この生絹組合が明治42年(1909年)に城端織物組合となった。明治44年(1911年)7月に井波町で設立された砺波電気が大正2年(1913年)に蓑谷村の池川に水力発電所を完成させ南砺地方に供電を開始した。城端には大正5年に石動電気株式会社が送電を開始し、電動の力織機が大量に移設され生産能力が大幅に高まった。同7年(1917年)に第一次世界大戦が終り、その後の好況で城端の絹織物も非常に栄、機業の法人化が進んだ。出荷数量が年々増加し、検印のためにはより広い場所が必要となり、組合事務所と出荷検査場として、また昭和天皇の御大典を記念して昭和3年(1928年)に大工町に織物組合本館が完成した。昭和4年から始まった大恐慌時には織物単価も急落し、操業を短縮して生産調整を行った。政府も中小工業組合法を制定し各地組合を通じて各企業の合理化を援助し、城端織物組合も昭和7年(1932年)に同法により城端織物工業組合に発展的に解消した。又、昭和5年(1930年)には城端でも人絹織物が始められた。昭和6年(1931年)に勃発した満州事変と金輸出再禁止によるインフレーションと円安により、人絹織物が大量に輸出されるようになった。城端の人絹織物も活況を呈するようになり、工場の新増設が盛んに行われた。昭和13年(1938年)に「国家総動員法」が施行され、戦時色が強まり人絹糸や生糸は配給制となり、第二次世界大戦中は企業の統合も行われ30数社あった城端の機業場も8の企業体と3の小組合に統合された。昭和20年(1945年)の織機台数は711台しかなく、昭和14年(1939年)の1738台に対し41%だった。      
 特筆すべきは昭和31年(1956年)よりナイロン織物が始められたことである。永年に渡って蓄積した絹の技術を生かしたナイロン・ポリエステルを織る長繊維織物産地として、現在城端は確たる地位を占めている。               

「城端町史」より



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